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社会人インタビュー

「自由」=違いを許容すること。京大自治問題を通して「不寛容」に投げかける疑問。

Writer|古渡 彩乃
  • 読了目安時間:26分
  • 更新日:2019.9.18

線引きしたって意味がない? “カオス“な世界で大切なこと。

僕は今とある大学の敷地を借りて実験させてもらってるんですが、そこに水が溜まってしまっていて困ったことがあって。で、しょうがないから、水をはけさせるために、ホームセンター行ってディスクグラインダーっていう機械を買ってきて、コンクリートの地面をジャイーンっと切ったのね。そうしたら一緒に実験してる院生が腕組みして白い目でこっち見ながら「許可取ったんですか?」って言ってきて。

-勝手に切ったんですか?(笑)

うん。だって、そこを管理しているところに許可を取りに行ったって、だめって言われるに決まってるでしょ?水溜まっててもその人たちは困ってないんだから。別に彼らはここに水が溜まっていようがなかろうがどうでもいいんだよ。だけど管理する責任は負わされてるから、なにか変なことが起こると責任をとらなくちゃいけない。

それは嫌だからだめって言うに決まってる。だけど「水がはけて誰か文句言うか?今使ってるの俺だけやで」と言い返しました(笑) それでもし誰かが困るんならすみませんって僕が謝ればいいんでしょ。万が一それでも済まなかったら、僕が一生懸命左官屋やればいいので(笑) 

管理側は知らないことにしておかないと、彼らが謝らないといけなくなって困るわけだから。彼らに「知りませんでした、酒井が勝手にやったんですよ」という言い訳をあげとかないとできるわけないじゃん、と。

-大学でも、昔は学生が少し勝手なことをしても、管理側の人たちには「見なかったことにしますよ、だけど困ったことが起こったら、あなたの責任ですよ」、というある種の寛容さがもっとあったんでしょうね。

そう、だからそれはある意味「どうでもいいこと」なんですよ、はっきり言って。でもそこで許可を取りに行ったら、それはもう見なかったことにできないわけです。だから要するに、許可をとるっていうのは他人に責任をなすりつけるってことなんです。

ただ、「見なかったことにする」というのが今みんなできなくなっている。何に対しても良いか悪いかを決めたがっちゃって、どうでもいいところを放っておくという余裕を持てなくなってるんじゃないのかな。

-「どうでもいいところ」は見て見ぬふりをすればいいのに、そこにまで首を突っ込んでしまって線を引きたがっていると。

そう。で、実はその「どうでもいいところ」から新しいものが生まれてくる。それをきれいにしちゃうと、僕はたぶん生物として生き残れないと思うんですよ。

-世間がだんだん、物事の全てに線を引きたがったり、不寛容になったりしてきてるのかなと思うんですけど、変わったきっかけとかはあるんでしょうか。

よく分かんない。だけど「初期値を決めればあとのことも全て決まりますよ」という決定論的な考え方はニュートンから始まっているわけで。それでラプラスという人がこれを突き詰めて考えて、「今我々が全ての情報を知りえる、万能な知能を持ったとすれば、全てのことはもう決まっているのである」という、いわゆるラプラスの悪魔という概念を打ち出した。

力学的・物理的な全ての情報が分かりさえすれば、僕がいつ死ぬかももう決まっているというね。それはもう200年くらい前の話ですが、実際20世紀になるといろんなことが予測可能になって、その前までは「分からなくてもしょうがないよね」って思われていたことがどんどん分かるようになってきた。

それで、「すごいじゃん、このままいけば全部分かるじゃん」とみんなが思うようになってしまって今に至るわけですよ。

ところが、20世紀の半ばにそれが崩れる。すなわち決定論の先にカオスが発見されて、「世の中はカオスだらけである」ということがだんだんと分かってくるんです。カオスということについて少し説明しないといけないね。電卓カオスって知ってる?

‐分からないです。

電卓で2乗して2を引くという単純な計算を繰り返すんです。ある種の漸化式なので、最初の値を決めてやればあとはずっと決まっていくはずですよね。こういうのを決定論的方程式というんだけどね。この計算を6つの異なる電卓にやらせます。四則演算しかできない電卓でも、「×」→「=」と押すと2乗できるので、「数」→「×」→「=」→「-」→「=」を繰り返せばいい。5拍子です。ということで『TAKE FIVE』に合わせて計算していきます。

-楽しいですね(笑) 最初は全部そろってますけど……あれ……ワンコーラスが終わるころには数値がバラバラになってしまいました。

電卓で計算すればちゃんと合うと思ってるでしょ?でも最後の桁をどう処理するかっていうのは電卓によって違うので、普段気にならないような小さい位の誤差も計算していくとどんどん広がって、一番上の桁まで全然違う結果になってしまうんです。

こういう、とても小さな条件の変化がのちのち大きな変化に繋がるというのをバタフライ効果といいます。これはもともとローレンツという人が言った「蝶のはばたきが遠くの地の嵐の原因になるか」という言葉に由来します。蝶の話をすると大げさに聞こえるかもしれないけど、実際にはそんなに大げさでもないんです。

例えば、今天気予報ってだいたい1週間分しかやらないんだよね。なぜかというとこのバタフライ効果でそれ以降は当たらないからです。頑張ればもうちょっといけるのかもしれないけど、今のところ予測できる限界はだいたい1週間だと言われている。

今外が仮に32.5℃だとして、2週間先を予測しようとすると、今測っている桁数の2倍の桁数まで測る必要があるので、例えば32.5289℃くらいまで測らないといけない。そうするともう誰かが息をしただけで気温が変わってしまうので、あらゆるところでみんなに息止めてもらって一斉に気温を測る必要がある。

‐無理がありますね(笑)

もしその状態でデータをとってコンピュータで2週間予報をめでたく出せたとしても、みんなが予定通りに息を吐いて吸わないと2週間予報が狂っちゃうんですよ。だから、2週間予報くらいまである種の予報は出せるかもしれませんけど、厳密な予測は恐らく厳しい。1ヶ月先なんか永遠に無理でしょう。この予測不可能さをすなわちカオスというわけです。

バタフライ効果が見つかったのは1965年のことですが、それはすごく衝撃的なことだったんです。全てが計算できるはずだと思ってたのが、「だめじゃん!」と(笑) そこで70年代にカオス理論というのが流行った。だけどカオスという現象があることはみんな認識しても、やっぱり全てがカオスで予測不可能だと思うと怖いので、どこか見て見ぬふりをしていた。ところが見なかったことにできなくなっちゃったのが80年代。

-何があったんですか?

マンデルブローという人がフラクタル理論を唱えたんです。実はカオスとフラクタルって表裏一体の関係にあって、非常に似てるんです。図形で表すとフラクタルになるやつが時間方向で見るとカオスになるという風に言ってもいいんじゃないかと僕は思ってる。こんなアバウトな言い方すると、数学者に怒られるかもしれないけれど、まあ、僕地学だから大目に見てほしい(笑)

で、自然界を見てみると、雲の形、海岸線、山の形、ありとあらゆるものがフラクタル図形。ということはカオスだらけだよね。だから基本的には世の中カオスだらけで予測はできないということ。

でもここで大事なのは、1か月先の天気予報はできなくても、明日の天気はかなり当たるということ。つまり、人間はある程度のところまではかなりの精度で予測できるということなんです。これはすごいことで、他の生物に比べて秀でていると言えるところです。野生の生物は理性をもって予測するということができないのでいろいろな危険な目に遭うわけですね。数の子の10万個の卵から生き残るのはたったの2匹です。2匹生き残れば個体数が維持できるようになっているので、彼らは10万分の2を想定したことをやってるわけだね。

だけど人間は理性を使ってもう少し賢く生きることができる。だから幼稚園のときには友達1万人いたけど10人になっちゃいましたってことはなくて、みんなちゃんと大人になれる。それは、明日の天気を予想できるという、ある種の理性をもって予測する能力があるからなんだけど、だからと言って明日が予報できたから1ヶ月先もできるでしょ、というのは間違いなんです。

-理性にも限界はあるということですね。

そう。しかもその限界はみなさんが思ってるよりはるか手前でくる。だからその先のことは最初から決めちゃだめなんです。何が起こるか分かんないので決めたって意味がない。世の中はやはりカオスで、先が読めないんだということをまず大前提として認識しないといけない。理性が使える限界より先のところでは、やっぱり野生の動物と同じように常に考えてチャレンジしていかないといけないんですよね。 

「どうでもいいところ」、予測ができないところでいい塩梅を考えるときには、理性はおそらく役に立ちません。使えるのは、たぶん「面白い」という感覚しかない。

-「面白い」という感覚……。

好奇心というかね。好奇心というのは犬や猫も持ってますよね。たまに見ていて「それやばいだろ」って思うことをやったりする。ばかだねえと思うけど、人間含めて好奇心を持っている生物が生き残ってるってことは、それは生物にとって必要な能力なんですよ。それがないと、ここまでいけるというような世の中の限界が分からない。

今いるところは必ずしも安泰じゃないので、どこまでいけるかというのは常に試してないと、生きる場所がなくなってしまう。だから常にチャレンジして考えていないといけないわけですね。その能力が好奇心で、だけどそれは危険と隣り合わせ。生物はそういう矛盾した能力をもともと持っているんです。

少し前に『チコちゃんに叱られる!』で「人はなぜ辛い物に病みつきになるか」という内容を取り上げていたんだけど、「辛い」というのは味覚ではなくて、「痛い」という痛覚らしいのよ。で、「痛い」という信号が脳に送られたときに脳はどう判断するかというと、生命の危険を感じる。

生命の危険を感じるんだけど、なぜかこともあろうに、快楽物質を出して麻痺させるわけです(笑) わざわざ危険を察知するセンサーを持ってるのに、「やばい」という信号を送ったら脳は「行け」って言う。

-すごく矛盾していますね。

そう。でもこれは好奇心とすごく似ていて、恐怖感があるからこそ好奇心も湧くわけだよね。矛盾したものの限界というか、臨界ギリギリのところを探る能力としてそういう矛盾したものを持ってるっていうのが、ある種の高等生物の性質なんだと思う。だから、その能力は常に使わないといけない。

片方に行き過ぎるとやばいけど、かといってもう片方に行き過ぎてもそのうち生きていけなくなって絶滅する。そこを常に考えながら生きていけるギリギリのところを探っていくっていうのが、生物としての本来の生き方なんだろうね。

チンパンジーも絵を描く、という話をとある研究者から聞きました。チンパンジーにペンと紙を渡すと、最初は振り回したりペン先を壊したりするだけなんだけど、そのうちポンとペン先が当たると何かが描ける。線も描ける。そのことに気づくとそのうち面白くなっていろんなものを描きだすんだって。しかもチンパンジーによって個性があって、誰が描いた絵って分かるらしい。

‐初めて聞きました。面白いですね。

ここで大事なのは、普通チンパンジーに何かをやらせるときってエサで釣るんだけど、絵を描かせるのにはエサがいらないということ。なぜかというと、たぶん結局は面白いからなんだろうと。最初はただペンを振り回すだけなんだけど、偶然にも線がかけちゃったりして、思わぬことを発見すると、自分の中でエサに相当する快楽物質が出てくる。これが、「面白い」ってことじゃないかな。

本来、まったく経験のないことをむやみにやるのは危険なはず。その危険なことをあえてさせようとする仕組みが、生まれつきインストールされているわけですよ。それはやっぱり、カオスな世界で、危ないかもしれないけどとにかくチャレンジしてみることが必要だということを示していると思う。危険を察知するセンサーは持っていないと本当に危ないんだけどね。


>> 次頁「自由なんて「情けなくてだらしない」?本当の「自由」とは。」

 

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