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社会人インタビュー

「自由」=違いを許容すること。京大自治問題を通して「不寛容」に投げかける疑問。

Writer|古渡 彩乃
  • 読了目安時間:26分
  • 更新日:2019.9.18

自由なんて「情けなくてだらしない」?本当の「自由」とは。

さっきの実験場の話じゃないですが、全部誰かに許可を取っていたら、例え小さなことを遂行するのにも莫大な時間がかかります。だから誰かが困ることでなきゃ許可なんかわざわざ取らなくていいし、管理側も見て見ぬふりをしてる方が楽でしょ。そうしないと世の中なんて絶対動かないですよ。

この世のすべての事柄の善悪なんか判断しきれないんだから、最初から善悪が全て決まってるなんてことはないんです。あまりに細かいところまで善か悪かきちんと線を引いてしまったら何にも動けなくなる。

-細かいところまで善悪を決めるのも悪いんでしょうけど、それを決める責任が、例えば行政とかのどこかに集中しまっているのも問題なように思います。

だから、みんなその善悪がどこかにあると思ってるんだけど、そんなもんないんですよ。生物にとって「酸素を出してはいけない」という法律はなかったという話もしたように、もともとルールなんてものはないんだけど、今みんなルールがあると思っちゃってる。そこが間違い。

-なるほど。ルールがあるからいいやと思って判断を管理側に丸投げにしてしまっている被管理側の人達もよくないし、ルールを自分たちが動かしていると思っている管理側の人達もよくないということでしょうか。

そう、というよりもだから決まった正しいルールがあるとみんな思ってることがそもそもの間違いで、それは今結果的にたまたま上手くいってるだけのルールなんですよ。それがずっと上手くいくとは限らない。だからもっと適当に、「いやそれはさすがにまずいでしょ」というところを押さえて、そこさえ守っていれば、あとはもうどうでもいいと思うんだよ。

-なるほど(笑) じゃあ酒井先生にとって最低限押さえるべき条件というのは何ですか?

生きていけるということ。人が死なないこと。

多少気分が悪いとか喧嘩とかはしょうがないですよ、人間だから。お互いに喧嘩をしながらも、まあまあそれなりに認めるというか、そういう姿勢が大事なんじゃないかな。やっぱりお互いにある程度不快な思いをしつつ生きているというのが生物のあり方なんですよ。

-最近多様性というものの大切さがよく言われるようになったと思うんですが、多様性の認識がちょっと違う人もいるのかなと思うんです。多様性というのは、基本的に「自分のことをみんなが認めててみんながお互いを認め合う」ってことじゃなくて、「お互い分かんないものや嫌いなものもところどころある」ということだと思うんです。

そうそう。人間誰しも、お互いに好きなところと嫌いなところがあって、でもその部分がどこかというのは人によって違うわけです。だから絶対にこれが良いというところもないし、これが悪いというところもない。だから吉田寮とかだって、僕ははっきり言ってあそこで自分で住めると思わないし住みたいとも思わない(笑) 

だけどというか、だからこそと言うべきなんだけど、それができるやつは偉いと思うし、そういう意味で尊敬する。しかもその自治を100年もやってるわけですよ。その実績はすごいよね、自民党や共産党より長いんだから。その実績はやっぱり認めようよって思う。実際に寮に住んでる学生と話すこともあるけど、とんでもない思想を持ってるかというとそうでもないし、ごく普通に真っ当。

いろんな問題を抱えつつも自分たちで決めてるってことは、やっぱり彼らもいろいろ考えてるんですよ。常に最適な答えが出せるとは限らないけど、でもとりあえず死なずに生きている。そこが重要でね。ときとして変なことをやっちゃうこともあるけど、死ぬとこまでいってない。その感覚は恐らく非常に本能的なものとして持ってるんだと思う。そういう意味で、吉田寮とかそういう学生たちが残ってるというのは、すごいなと僕は思う。

‐確かにそうですね。

話は戻るけれど、最初からルールが決まっているわけではなくて、ときに本能的な感覚も使ってその都度適当な折り合いをつけていくというのがやっぱり大事だと思うんですよね。理性は、例えば「そのままいくと戦争になっちゃうな」とか「これを続けるとお互いに不幸だよね」ということを想像して「やめましょう」という判断を下すために使うべきだと思う。そこまでいかないところは、そんなに決めなくてもいいじゃないですか

-いったんルールが決まると、みんな「ルールを決めたからいいか」という気になって、考えるのをやめますね。

そう、そもそも考えるのがめんどくさいからルールを決めるわけですよ。いちいち喧々諤々の議論をしてもたいして変わらないことに対して、「細かいところにはこだわらないからそれでいいじゃん」と決めて作るのがルール。だからルールを決めるということは「アバウトでいきましょう」っていうことだと思う。

-日常生活においてもルールを決めるところとあまり決めないところがありますね。クリエイティビティが介在するところはあまりルールを設けないような気がします。法律もたくさん文章がありますけど、よく読むといろんな解釈ができるものもありますよね。

とある法学の先生が「法律やルールというのを全て守ることはできません」と言っていた。彼いわく、「法律というのはその場その場で必要に応じて作られた約束事の集合体なので矛盾しまくってますよ」と。

言われりゃそうだよね。全体を見て整合性をとった法律なんてありえない。だからルールで一番大事なのは、実は「ただしこの場合は除く」みたいな例外規定の方なんだって。「今自分が見ている範囲においてこのルールは適用する」ということが大事なわけですね。

だからまず、ルールというのは考える手間を省くためのものだということを認識する必要がある。「ルールを守ればいい」じゃなくて、本来は一つ一つ真面目に考えないといけないんだけど「めんどくさいからこうしとこうよ」っていうのがルールだと思うべきだと思う。

-法律が絶対なわけじゃないよと。

そうそう。彼は、民法は基本的にデフォルトルールだと言う。つまり、絶対に守らなきゃならないものじゃないということです。民法というのは、何にも取り決めがなかったときに「普通こうしますよね」というルールであって、たとえ民法と違っていてもお互いの了承があれば問題ないんだと。

ルールは手間を省くためのものなんだから、ルールを決めたことでめんどくさくなる、というのは本来の趣旨に反するわけですよ。

-具体的な事例になってしまいますが、夏休み前に一部の学生がタテカンフェスをやってた時に大学の職員の人が「大学構内で許可なく集会を開いてはいけない」という内容の、昔の条文か何かが書かれたプラカードを使って取り締まりに来ていました。ルールの意味を考えると、それを行使するのは少し違ったんじゃないかなと思います。

うん、あれはたぶん戦前のいわゆる赤狩り時代の産物で、共産主義運動を取り締まるために作られたものだからね。あれを今出すというのは、何も考えていないということを露呈してしまったようなものだと思う。

昔『ひょっこりひょうたん島』という人形劇がありましたけど、あれめちゃくちゃブラックよ。今だったら炎上してしまうかもしれない。『貴族のお仕事』っていう歌があったんだけど、歌詞が「下々の人間はがつがつ汗だくお金を稼ぐ それが仕事 私共貴族は上手にそのお金使ってあげる これが仕事だってみなさんそうざましょ?」って感じで(笑) 

-炎上しますね(笑)

そうでしょう。僕らはそういうブラックな歌を散々聞かされて育ってきてる。確かに今はこれ炎上しちゃうと思うんだけど、いや、そこまでみんな平等か?平等にできるか?とも思うんだよね。確かにみんなが同じようにいろんなことをきちんと理解できるなら、完璧に平等という状態もあり得るかもしれないけれど、現実には人によって理解できないこともある。

それは理解できるから偉い、できないから偉くないという話じゃないんです。自分に理解できないやつがいるというのは当然のことだから。そうなると、例えば表現はともかくとして「貴族」と「下々」で、ある種の役割分担があるのは自然なことなんじゃないかなと思うんですよ。

全体を維持することを貴族というか上の人間は考えていて、その下の人達はとにかく言われたことに従って働く。ある程度そういう役割分担というものがあってこそ社会は成り立っているんじゃないかと。まったく平等だったらそもそも商売って成り立たないと思うんですよね。すべての人が同じ能力を持っていて同じように働けたら、何かを交換する必要がない。

‐片方に秀でている部分があって、両者に差があるからこそだと。

そうそう。金は持ってるけど何かがない人と、金はないけど何かを持ってる人がいて初めて商売は成立する。そもそも人間活動も含めて生物のあり方の本質というのは、全く平等でないところで何かが動くというところにあると思う。エネルギーも差があるから流れる。完全に平等になっちゃったらそれは死を意味する。だから全くの平等を目指すというのは、僕はナンセンスだと思います。

-今世間的に目指されているのは、平等というよりは同質化、画一化という言葉の方が正しいかもしれませんね。それは生物としての死に繋がると。

そうそうそう。みんな同じになっちゃったら死ですよ。みんなが違うことやって違うこと考えて、お互いに死ななきゃそれでいいのよ。

-立場によってある程度役割分担が決まっている、というのは理解できました。でも、だからといって、力を持った人がルールを使って弱い立場にある人を思いっきりグーで殴ってしまうと、みんな何もできなくなってしまいますね。

そうだね。本来憲法なんてそういう権力の暴走を防ぐためにあるはず。だから権力を持っている人は、その使いどころを間違えるとえらいことになるという自覚を持ってないといけないわけですよ。

今の政治家でもその自覚がある人って少ないと思う。個人的な感情で「気分が悪い」っていうのは、権力を持っている人が言うことじゃないんです。それは権力のない人間が言うべきことであって、それを表現の自由というんだよね。そこでどうするかを決められる力を持ってる人がそれを言ってしまったら、まとまるものもまとまらないでしょう。

お金を動かす人も同じで、お金は世の中を回すための一つのツールで、お金持ちが絶対的にエライわけじゃない。金持ちには金持ちの役割分担というものがあって、その他の人と決して平等ではない。今権力者全般がそういうセンスを完全に失ってしまっている。

‐大人が小さい子供と話しているときに、腹が立って頭を殴ったら死んでしまうかもしれない。それが分かっているから、大人はたとえ足を蹴られようが殴らない。権力者、為政者のあり方も一緒だと思うんですけど、もし今大学側が学生と同じ目線になって本気で殴ってしまっているんだとしたら、今の状況も納得できるなと思うんです。数十年みんなが「学生が変なことやってるな~」と思いながら見ていたものがあっけなく消えていってしまっているというか。

うん、今は学生のほうがむしろ大人になっていると思う。

-10年くらい前に京大で「石垣カフェ騒動」があったことを最近知りました。すごいなと思ったのですが、「大学側が大人の対応をとった」という報道がされたというように書いてあったことが少し引っかかって。確かに傍から見たら学生のやったことは下らないですけど、結果的には学生自治を貫いたと言えると思うんです。でも「大学側の大人の対応」と言うと、「レベルの低い学生に大学が合わせてあげた」という感じがして、学生自治という言葉にある、なんとなく素晴らしいイメージとはまたちょっと違うようにも感じられて……これは学生自治と言えるんだろうか、という疑問を持ちました。先生はどう思いますか?

なるほど。でも、僕は自治が必ずしも素晴らしいとは思わないよ。はっきり言ってみすぼらしい。でも、生物ってそういうもんなのよ。例えば南の島の海をきれいだとみんな思うけれど、実はあれは海の生物にとっては砂漠と同じ。きれいなのはプランクトンがいないからであって、栄養豊富なところは汚いものなんだよ。

-なるほど。

自治とか、京大の「自由の学風」とかに対しても、なんだかみんなキラキラしてるものを求めている気がする。だけど「自由の学風」なんてはっきり言って情けないよ。だらしないというか、シャキッとしないというかね。それでもなんとかするのが自由ということであって、けっしてそんなキラキラしたいいもんではない。むしろかっちり決めてかっちり動かす方がかっこよかったりする。

その組織的な動きがないとみんなで力を合わせて何かを成し遂げるということはなかなかできないしね。一方「自由」っていうのは正反対で、だいたい各々が勝手なことをするので、「小粒の動きがいろいろ生まれるけどすぐぽしゃる」みたいな状況になる。これは自由だからそうなるんですよね(笑) でも、そこでその自由さをなくすと面白くなくなるわけです。

だいたいはうまくいかない。だけどそれを許容するというのが自由なんだから、自由というものにそんなキラキラしたイメージを求めるのは矛盾してると思う。自由というのはだらしないものなんだけど、世の中では「だらしないものはだめ」と抑えられているので、たぶんみんな本当の自由を知らないんですよね。きれいな自由しか知らない。本当の自由というのはそんなにきれいなものでもないし、かっこいいものでもない。失敗すると痛い目に遭うしね。

-酒井先生は『変人講座』をやっておられましたが、なんかみんなその「変人」もキラキラしたもののように考えているような気もします。

うん、変人に対しても、同じようにみんな少し誤解していると思う。『変人講座』への反響はいろいろでしたが、意外と「たいした変人やないやん」という反応も多かったんです。どうやらみんな、本当にぶっ飛んでいたり、見てくれが奇抜だったりするやつを期待していたらしい。でも、そういうやつがみんな面白いかというと、必ずしもそうじゃない。それよりも少し目立たない「ちょっと変なやつ」の方が重要だったりする。

というのも、さっきのバタフライ効果と一緒で、「ちょっと変」を許すと将来無限の可能性があるからなんです。でも、ちょっと変っていうのが一番うっとうしい。ぶっ飛んだやつは「あんたは違うから」と別世界に隔離できてしまうけど、「ちょっと変」は排除する理屈を見つけるのが難しいし、それでいて、「ちょっと変」なので周りも調子が狂う。

でもそのうっとうしいやつらをそのまま放っとけよ、と言いたい。僕はそういうちょっと変なやつのことを「進化中の地味な変人」と呼んでいるんだけどね(笑) 大事なのはそこで、生物もそうだけど、いきなりぶっ飛ぶと死ぬ確率高いけど、ちょっとずつなら生存確率も高い。しかも、周りに迷惑をかけながら、周りも巻き込んで変わる。つまり、社会を変えられるのは、ぶっ飛んだヤツじゃなくて、ちょっと変なヤツなんです。だから変なのはちょっとでいいんだけど、その「ちょっと」を許せ、と。そこが僕の言いたいところ。

‐本当に変な人って、あんまり自分のことを「変人」だと思っていなかったりしますよね。自分の立ち位置をあまり考えていないというか。

そうそう。本当の変人は、自分の「面白い」という気持ちを優先していますね。というか面白がっていると変人になっちゃう(笑) 自分が社会的にどこにいるかを考えるんじゃなくて、「俺がやりたいからやる」。それを許すのが、やっぱり自由だと思います。

だからといって勝手なことをやられては困るというのはそりゃそうなんだけど、最低限の禁止事項だけ作れば、あとの「どうでもいいこと」は放っとけよ!と思う(笑) だから「変人を許せ」というのは、「どうでもいいことを許せ」ってことなんだよね。

-よりよい社会のためには、世の中全体が「理性の限界を知ること」「好奇心を大切にすること」「少しだけ寛容になること」が必要だということですね。京大の問題も、大学・学生・周囲のみなさんが納得する形で収まるといいなと思います。本日は本当にありがとうございました!

 

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