spotlight
自分を見せ、自分を知る。伊藤三時の模索する「自己表現」という生き方。
Writer|中村 達樹 |
- 読了目安時間:9分
- 更新日:2020.3.24
他人の評価のためでいい、とにかく何かを完成させる
-ここまでお話を聞く中で、どんな世界へもあっという間に入っていって、気付けば作り手の側に回っている三時さんの行動力に感嘆するばかりなのですが、その原動力はどこにあるのでしょうか。
考えたこともなかったですね……。たとえば小説に関して言えば、「書きたい」というきっかけさえ持てれば、あとは自然に期限に追われて完成している、といった具合ですし。
ただそういった「書きたい」「残しておきたい」と思えるような題材は、日常の出来事や過去の経験の中から生成されているように思います。もっとも、それをあまり重く考えてしまうと書けなくなってしまうので、ある程度ラフな形で心に留めておく必要がありますが。
-逆に一度「書きたい」と思っても、すぐに冷めてしまうケースも多いように思います。
その点に関して言えば、厳しい言い方に聞こえるかもしれませんが、「やりたい」と思ったり、宣言したりするだけなら誰でもできるんです。ただ、それは完成させなければカタチに残らないので、その瞬間にやって、完成させてしまえばいい。
この考え方ゆえに失敗してきたことも沢山ありますし、一概に言えることではないとは思いますが、これが私の考え方です。
たとえ駄作でも粗大ゴミでも作ってしまえばいい。そのゴミの中に一つでもいい物があって、それを買い上げてくれる人がいるのであれば、そのためだけに作ればいい。とにかく完成させなければ何も残らないですし、完成させてみないとどう評価されるかも分からないと思います。
-「評価」という言葉が出ましたが、他者からの評価もやはり気にされますか。
そうですね。他人の評価は気になる方ですし、「自分がどう見られているかが知りたい」という欲求も、創作の原動力の一つかもしれません。
私は昔から存在感がない方だったので、自分が存在しているかさえ疑問に思って生きていました。小学生の頃から「自分って何だろう」と考え、実存の脆さに恐怖を覚えるような、そういう子供時代を送っていました。
そういった経験もあって、私は周囲からどう見られているのか、そもそも見られているのか、という部分には人一倍強い関心があるように思います。人の評価は時に無慈悲ですが、良い評価であれ悪い評価であれ、周囲から返ってくる評価によって実存が保たれているように感じるので、悪い気はしないですね。
それと関連するかは分かりませんが、私は「他人の言葉で生きている」とつくづく思います。
-と言いますと?
私は生まれつき、他人の知識・評価などへの好奇心が強いタイプなんです。幼い頃は両親から「他人の話していた話題を面白おかしく語るな」と教育され、それをコンプレックスだと感じていた時期もありました。
ところが世に出てみると、他人への興味・好奇心が評価される場合もあることに気づきました。それ以降は特に気にならなくなりましたね。
-最近は「他人のことは気にするな」という言説もよく耳にしますが。
私は別に気にしてもよいのではないかな、と思います。他人の言葉を一切気にしない自分一人の状態では同人誌を出すのも、演劇をするのも、はたまた生きていくのも無理です。
実際、自分の作品もゼロから生み出されているわけではなく、他人から聞いた話や読んだ小説、聴いた音楽などの積み重ねと組み合わせで出来ていますし、そもそも創作という行為自体、そういった過去の蓄積だと思いますね。
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