社会人インタビュー
伝えるべき情報を、伝わるように。デジタル化戦略に見る「次代の新聞社」。
Writer|掛川 悠矢 |
- 読了目安時間:8分
- 更新日:2020.4.1
藤谷健(ふじたに・たけし)、朝日新聞東京本社編集担当補佐。インドネシア駐在時代にはスマトラ沖地震を経験。記者生活を経て、紙とデジタルの両方の編集にも携わった。新聞社の過去から現在を見てきた彼の考える、これからの新聞社の果たすべき役割とは。
「伝えなければいけない」、記者の使命。
-本日はお忙しい中、お時間をいただきありがとうございます。まずは藤谷さんの記者時代のお仕事についてお聞かせいただきたいと思います。
はい。ご存知かと思いますが、新聞社に記者として入ると始めの数年は地方勤務になります。僕の時の地方期間は5年だったので、入社後宇都宮に3年と札幌に2年いました。その後は今の国際報道部に当たる外報部です。国際ニュースを扱いたかったので希望してそこに異動になりました。
-初めから外報部志望だったのですか?
そうです。特にアジアの途上国のことに関心があったのです。学生時代からアジアのことを勉強していたし、交換留学でフィリピンの大学に行きました。それからアフリカにも興味があって、アジアやアフリカの取材がしたかった。なので外報部に行けることが決まったときは嬉しかったですね。
実は外報部への異動は留学を含んでいて、僕も異動してすぐにイギリスの大学院に行きました。イギリスの大学院では1年間で修士課程が取れるので、1年間の留学でした。
そこで学んだのは開発学といって途上国に関する学問です。その後帰って来てからは基本的に国際ニュースを扱う部署で20年以上記者をやってきました。途中、小さな人事異動で経済部や英字新聞を1~2年担当することはありましたが。
-なるほど。それではご自身の仕事で印象的なものは何でしょうか?
まず、最初の海外駐在はローマだったのですが、その時に旧ユーゴスラビアが崩壊しました。冷戦崩壊後の国際的な流れで大きく秩序が変わって、それまで同じ国で隣同士暮らしていた民族同士が殺し合いをする事態になりました。
そんな状態のところを取材をしたことを覚えています。2004年にはインドネシアのジャカルタにいて、スマトラ沖地震で大きな津波があった。それも鮮明に覚えています。
-藤谷さんはご自身のTwitterアカウントでも、スマトラ沖地震の時のことについて発信されていますね。やはり特に印象深かったということでしょうか。
津波というのは、ボキャブラリーとしては当然知っていたけれど、実際にどんなものなのかはあの時全く分かっていませんでしたから。被害を目の当たりにした時のことは忘れられないです。
-知っているということと、実際に見るということでは全く違うと感じますね。
実は、スマトラ沖地震の時は、僕は被害のあった地域から離れた所にいて、地震や津波が起こった瞬間を体験しませんでした。東日本大震災の時には、ヘリコプターからの津波の映像を見て、震えがきたのを覚えています。
家族や友人を亡くしたり、家を失ったりした人たちに話を聞くのは心苦しいことでした。被害のことを実際に見て知っているのもあって、自分の中でそれらが重なりあっていわゆるPTSD(心的外傷後ストレス障害)のような気持ちに襲われたのを記憶しています。
だから自分の中では辛かったのですけれど、今では学ぶことも多い取材だったと思っています。
-被災者取材は取材をする側としても心苦しい部分があると思います。
ただ一方で使命感もありますね。1つは、自分が行って伝えなければ、何が起こっているのか人々に伝えられないからです。特に海外では自分1人での取材も多い。自分が伝えることイコール日本の人たちが知る情報、ということになります。
それにもう1つ、家族を亡くしたりした人たちは、思い出したくもないはずなのに話してくれるんですよね。それは何故かというと、支援が届くとか、自分たちのことを誰でもいいから知って欲しい、見放されたくない、といった色々な思いがあるからです。
人に嫌なことを思い出させるというのは確かに酷いことに聞こえますが、僕らが書くことで何かが変わるかもしれません。今後の防災に役立つかもしれない。
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